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鈴谷 (重巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
鈴谷 (重巡洋艦)[すずや]

鈴谷(すずや)は、日本海軍重巡洋艦#達昭和8年8月(1)p.1『達第七十九號 艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ二等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和八年八月一日 海軍大臣 大角岑生 横須賀海軍工廠ニ於テ建造 八千五百噸級巡洋艦 鈴谷スズヤ』〕。二等巡洋艦最上型の3番艦である〔#艦艇類別等級表(昭和15年12月25日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|最上型|最上、三隈、鈴谷、熊野』〕。その艦名は、樺太鈴谷川から取って名付けられた〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.90『鈴谷(すずや)【初代】 艦種通報艦 一檣(信號用) 艦名考川名にして樺太「コルサコフ」に近接する川に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「ノーヴヰック」、明治23年獨逸「シーショウ」造船所にて進水。排水量僅かに3,000噸にして場力20,000、速力25浬、謂近世軽巡洋艦の鼻祖と見るべきものなり。日露戦役中明治37年8月20日「コルサコフ」港に於て我が艦隊(千歳・對馬)の爲めに撃破せられ擱座しありしが、後ち之を収容、同39年7月13日引揚を了し、同39年8月20日帝國軍艦と定め「鈴谷」と命名、大正元年二等海防艦に編入、同2年4月1日除籍。(要目略)』〕。
日本海軍の軍艦としては、通報艦防護巡洋艦鈴谷(旧ロシア帝国軍艦ノーヴッック)に続いて二代目〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.138『鈴谷(すずや)【二代】 艦種二等巡洋艦 艦名考初代「鈴谷」の項参照(p.143)。』〕。
15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され〔#ポケット海軍年鑑(1937)p.42『ニ等巡洋艦"最上 もがみ" 全要目 最上級15糎砲軽巡は、倫敦條約の産物であるといつてもよい。勿論條約などに關係なく英米は建造する豫定でゐたのであらうがはつきりと10,000噸15.5糎砲と極限を定めたのは條約である。米國の"ブルツクリン"英國の"マンチエスター"は各12門であるらしが、わが國では一足お先に最上、三隈の2隻を竣工させた。我國最初の三聯砲塔であると同時に、最も進化した装備と艦内諸設備は全く目を瞠るばかりである。明日の海軍を擔ふ氣鋭の新戰部隊に嘱望する所は大きい。後續の"三隈 みくま"は昭和10年8月竣工したが"鈴谷 すゞや"や"熊野 くまの"は最近進水を遂げ、次に"利根 とね" "筑摩 ちくま"と建造計畫はすゝんでゐる。』〕、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。日本海軍の書類上の分類は、戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった〔。
== 概要 ==
第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正された。そのため1番艦(最上)、2番艦(三隈)とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもあるが、日本海軍の書類上の分類は4隻とも二等巡洋艦最上型である〔。また、ボイラーは初期2艦(最上、三隈)の重油専焼罐大型8基小型2基・計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー減少の分だけ径が細くなっている。

未成に終わった次級伊吹型(伊吹)も、マストの位置変更以外はほぼ同型のまま起工された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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